花隈公園~かつての激戦地も今はいこいの公園に
まったり過ごせる憩いの展望公園
石段をずんずん登っていきます。ふと横を見るといつの間にか高架よりも高い位置に登っていました。電車と同じか高い目線で電車が行き交う様子を眺めることができ、とても新鮮な光景です。阪急電鉄とJRが並走している区間でもあり、車両同士が交差するときなどは迫力があります。
この公園、入り口がたくさんあります。こちらは公園の東側の坂道を少し登ったところにある入り口です。こちらは石垣のダイナミックな姿を楽しめます。
先ほどの石段上がったところにつながっています。
花隈城跡の石のプレートが掲げられています。ここはかつて織田信長の命で荒木村重が築いたとされる花隈城の跡地です。鬼門鎮護の神として四宮神社を信仰していたそうです。
荒木は信長に反旗を翻したため「花隈城の戦い」を経て落城することになります。この合戦の功でこの地を与えられた池田恒興は後に兵庫城を築いたため、花隈城は廃城となりました。兵庫城は現在兵庫運河のキャナルプロムナード沿いに石碑が残っているだけとなっています。
wikipediaで荒木村重のことを読んでいるとなかなか壮絶な人生です。興味があればご一読してみてください。
花隈城は、永禄10年(1567年)織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段として、この土地に摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。のち天正6年(1578)村重が信長にそむいたとき、花隈城は池田信輝らに攻められて、天正8年(1580)8月2日ついに落城した。
城の地点は海に面して突き出たハナクマの名の通りの台地で、海陸の要害地である。城の規模は古図によると、本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設け、二の丸、三の丸と北に続き、その東に侍町と足軽町があり、近世城郭の形態を完備した偉容を示していたと伝えられるが、建物の構造などは詳しくはわからない。城の西には花隈町があった。
現在の地形では大体東は県庁、西は善福寺(モダン寺)、南は国鉄高架線、北は市電山手線の区域で、東西約350メートル、南北約200メートルであったと思われる。
昭和44年3月
「国鉄」と「市電」があった時代にきざまれた石碑。時代と時間の流れを感じます。
花隈生まれの川柳作家「椙元紋太」氏の川柳が刻まれた石碑が建てられていました。ここに移築されたのは2018年とのことなので最近なのですね。
椙元紋太(本名 文之助)
1890年(明治23年)12月6日生まれ
1970年(昭和45年)4月11日歿(強ねん80才)花隈町に出生、戦災まで和菓子舗甘源堂を経営、大正2年神戸川柳乙鳥会(花隈町)同人、「ツバメ」「柳太刀」誌を編集
「川柳は人間である」を提唱、昭和4年ふあうすと川柳社(花隈町)を創立 同人、「ふあうすと」誌を編集発行、全国紙に発展させる。
川柳六大家の一人、昭和26年兵庫文化賞受賞、障害を川柳に託し、逝去に際しては恩賜の銀杯を賜る。
伊丹市多田街道沿いに2002年(平成14年)6月建立せし句碑を2018年(平成30年)4月花隈城址公園整地完成を機に移築。句碑 人みなの千秋万歳うたがわず 川柳 紋太
2018年6月吉日
ふあうすと川柳社
花隈自治会
広場の真ん中には天守のようにそびえる展望台がありました。
美しい見事な石柱です。この石柱も阪神淡路大震災の被害をうけたのですね。こんなところにも震災の傷跡が。。。
この石碑は、平成7年1月17日の兵庫県南部地震により倒壊し破損したものを、資料に基づき新たに模造し復旧したものです。
「東郷井」の碑石というものもありました。日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破させた海軍の東郷平八郎にちなんだ名前だとか。日本で最初に映画を上映した場所として知られる神港倶楽部の敷地内にあった家に1年ほど住んでいたそうです。知らなかった。
ドラマか映画の撮影に使われていた現場に出くわしたこともありました。観光客の姿は見たことがないですね。地元の方がのんびりとくつろいでいるような風景が良く似合う公園です。
所在地
〒650-0013
兵庫県神戸市中央区花隈町1−1
交通アクセス
JR「元町駅」・阪神電車「元町駅」から西へ徒歩3分
阪急電車「花隈駅」から東へ徒歩1分
参考
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